ユヴァル・ノア・ハラリ『ネクサス』読んだ

先にどうとでもなる苦情を書いとくと「なりかねない」とか「とはいえ」とかがやたら多いのがとにかく気になる。この本全体が著者の主張であることを考えれば、(過去の事象については考古学上の類推でも断言しているのに対して)将来予想の類だからといって断言をここまではぐらかすことには著者の固有の引いた態度を邪推してしまう。あるいは訳者のレトリックが貧弱だからだろうか。

これを先に書いておきたくなるのは、それなりに強火の主張をする割には全部が全部ぼやけたトーンを堅持することで何らかのエクスキューズを感じるからなのだろう。「私が悪いわけ無いですよ」みたいな。あとがきにある通り原著者はこの分野の先端を突っ走る技術者・経営者でもないし政治家でもないわけだから一定の留保はあって良いとおもう。ただそれにしても……と思うわけだ。私が評論家嫌いという部分があるからだろう

 

とたっぷりめに苛ついていた部分は書いたうえで

 

主張の方向も論拠も議論も全く悪くないし、危惧している問題についても描き出し方は素晴らしいように思える。何より、この著者は「実は古くない問題」については適正に過去の事例を持ってくる鋭敏さがすばらしいと思う。歴史を研究している人であるからこその比喩があると思う。

読んでて(自分に対して)恥ずかしいなぁと思うのは、一部の歴史的事実は授業や過去の学びで気づいておけ、みたいな話も多かったことだろう。個人的に難しいところではレーニン周囲のソ連の事象(世界史に弱い部分があった)、頭の中にあって結びついていなかったもの(知識の断片を著者のように結びつけられていなかった部分)としては魔女狩り。経典の類が結局過去の人のチェリーピック的所業の成果物だ的な視点も斬新というのはおかしいが目から鱗

また「金融の影響力とそれに対して人間が掌握出来ていない度合いのすごさがヤバい」みたいな(語彙力のない)自分の感覚がある程度言葉で書かれていると、より助かる面がある。

 

この手の本は個人レベルで「じゃぁどうすんの?」みたいな行動に結びつけられる感じはあんまりしない、さりとて無駄でもない。どちらかといえば世界中で影響力が高い類の人が何か動けるかもしれない、という意図を持って書かれていて、日本語訳読んでるこっち側は(もちろん字面上「お前らには制御する権利も力もねーよ」なんて書きはしないものの)所詮は評論家に送る養分(活動費用)くらいの関係でしかない気もする。(もちろんこの手の評論家なら次の反論だってひねりだすのは造作ない。「民意が大事なのだ」とか。レコメンデーションエンジンがこれほど猛威を振るっているときにどこまでこの手のうわべっ面の主張が通り続けるのかはそれはそれで誰か分析してほしいところ)

平積みされているのを買って読んだ側の主張としては随分態度悪いと思うけど「そこらへんの下っ端に読ませて……どうすんのかな」と思わないでもない。日本の税金について学ぶほうがずっと先なのでは。

えーあいえーあい叫ぶのはもう構わないし、極論ニューラルネットワークの中身を研究者でもわからなくなっているというのもそれはそうなんだろうけど、「とはいえ」脅威論の手前に書き並べることはもっとあるだろう、という感じは拭えない。自分は別の情報に頼ろう。

 

過度に「過度」を使うなかれ

ここ最近「過度に~~なのは良くない」といった趣旨の主張をよく見るようになった気がする。「よく」は気の所為かもしれないが、だれかが主張の肝心要のところでこういう用法を使うのを見てイラッとさせられる機会が増えたという印象はある。

当たり前なんだよ。過度なんだから。

 

「適正量でないものを適正量に戻しなさい、適正は過剰でない量です。誰が決めるのかはよくわかりません」みたいな主張は主張になっていない。良くないのは過剰だから、過剰なのは良くないとき、というのは、いつ過剰になるのかの判断材料にはもちろんならない。

強いて言うなら、この用法は使った瞬間から分量の多寡と関係なく論理的に「ダメ」だ。判断にも評論にも適さない。大したことは何も述べていない。「自分が今の状況を不愉快に感じる」と書けないから、現状を「過剰」だと断定することになる。

判断をするのなら「過剰」は将来の投入量に対して判断可能な水準を「先に」定義してようやくフェアな判断になる。「1日あたりコーヒーを10L飲んだら過剰だ、あなたは12L飲んだ、よって過度にコーヒーを飲んだことになる」といった具体にだ。

新聞をはじめ、どうにも後付での「過剰」判断が何か有意義な行動に繋がると信じている人が一定数いる。もちろんすごくすごく限定的にはそうだ。「バックミラーを見ながら運転する」という表現を思い出させる程度の限定的な効果ではあるけれども。「事故を起こした、バックミラーを見ると路面が凍っている。これはよくない」まぁ評論として間違いはないだろう。しかし、「前を見ろ」と先に私は思うわけだ。

『西洋の敗北』読んでる

他の本と比べて特別読むのに時間がかかってる。

筆者の主張には十分な説得力があり、一方で少なくとも自分が見聞きする議論の外の材料(著者の研究分野)がベースになっていることもあって咀嚼に苦労する。

 

プロテスタントを中心とした西洋の最近のびみょーさについての記述には私としては文句がない。実際、びみょーに見えるし、それが「ニヒリズム」という言葉に収束していく描き方は見事。

読んでて個人的に問題になるのは「著者であるエマニュエル・トッドの基本的な用語を自分が知らない(絶対核家族など)」「ニヒリズムの一般的な解釈・使われ方を知らない。それに付随する形でこの著者の用法が一般的な用法と同じか、類似か、固有で妥当か、固有で行き過ぎか、の判断がつかない」「そもそも欧米の基本的な歴史、地理を自分がこの本で議論出来るほど知らない」と様々。

ここまで前提知識が足りないのだから、読み取りが適切であるかの確信も正直ない。「やーい、西洋失敗してやんの」とか言ってらんない。一応枠としては日本もこの「西洋」に足片方突っ込んでる側なのよ。

 

「ふーん、そっかー」とスルーするには主張が激重であることもあって、この本を読んだ上で「そこで前提にされている各種の知識や議論」に遡る必要まで感じる。

例えば「ニヒリズムってなんや」について、

ニヒリズム - Wikipedia

Wikipediaをさらっと読むのはまぁ良いとしてそこにある「強さのニヒリズム」を一定以上掘り下げる必要を感じたりする。ひとつには「トッドはニヒリズムを言及する際にこの強さのニヒリズムを明らかに全力スルーしている」感覚が正しいか、あとは、『西洋の敗北』とはなんも関係がないが、昨今自分が考えている「社会背景に倫理とか感じ取れないときにも自分なりの倫理は確立するべきなんやで」という根なしの思いが「強さのニヒリズム」と言ってよいのか、みたいな。

※私は「Unlimited Blade Works の思想」と勝手に名付けてるんだけど。英霊エミヤの感覚ってニヒリズムのそういう(「強い方」の)側面が強くないかなと(単純にニヒリスティックなキャラ、という以上にそういう印象がある)。

 

この筆者の議論の変遷を知らないので、「それっぽい理路になっているけど、本当にこれまでこの人の議論に変遷がなかったのか」も気にはなる。曰く、色々な社会事象を「当てている」というのがエマニュエル・トッド評で一定正しいと思いつつ、自身も掲題書内で一部認めている通り結構、社会情勢の解釈を「外しても」いる。

あくまで研究者であって実務家ではないことも相まって、根本のところでこの人の言う通りには絶対ものごとは起きてないしこの人の言う通りに行動してもダメだろうなぁ、という感じがする。視点視座は興味深いんだけど、どっかで他人事感がある。

 

20年くらい前、『フラット化する世界』なんて本が流行って私も虜になったものだけど、当時からこの人は否定的であったであろうとは予想され、しかもそれが今の現実においてはより正解に近い。ぼやっと希望的観測を述べて人気を勝ち取った当時から今に至る「外した論者」(私もその類に属する)はどう今を解釈して行動すべきなんだろか。

……そういう視点でこの本を見てもいまいちはっきりはしてこない。繰り返すと研究者という立ち位置でしかないから。議論に曇りはないのだが、本書自体が筆者の言う「ニヒリズム」的な傾向を持ってやしないか、なんている気持ちもチョットある。

 

読み終えてもないので、ここで。

 

 

エコーチェンバー除けとしての「分厚い本」

以前から「日本人の書いた本はおおむね苦手」であるとか「邦訳された厚い本がしっくりくる」といった話をしたり書いたりしていたように思う。ただ、「なぜか」については自分自身もしっくりした説明をできていなかった。

 

『多様性の科学』において「フィルターバブル」と「エコーチェンバー」は似て非なる概念として記述されている。そこでふと、上記の「大部の本好き」「日本人書籍嫌い」に対するヒントを得られたように感じた。これはもしかすると個人的に非常に大きな発見であるかもしれない。

 

『多様性の科学』において「フィルターバブル」は都合の悪い文脈が「見えない」ことを問題視している一方「エコーチェンバー」は都合の悪い文脈も見えるが一切信用ならないもの、その発信者の人間性含めて貶めてよい敵対対象であるとみなす傾向がある、といった話がある。今回の議論でより重要なのは「エコーチェンバー」の方だ

 

同著でも引用なのでここでは孫引きになるが、以下のようにある

自問してほしい。あなたは優秀な統計学者とそうでない統計学者の区別がつくだろうか?いい生物学者とそうでない生物学者は?原子力工学者ならどうだろう?放射線医師やマクロ経済学者なら?(中略)こうした検証を自身で行うのは極めて困難だろう。そこで拠りどころとなるのが、信頼という大いに複雑な概念だ。我々は互いを信頼し合わなければならない。しかし哲学者のアネット・ベイヤーが言う通り、信頼は人を無防備にする。

 

エコーチェンバー現象の影響を受けているときには、おそらく自分が信頼を寄せている考え方・それを主張する人々の意見はより容易に同意したくなる。逆の場合は、当然、相手の意見に敵対的な方向からスタートする。

 

ここでふと気づいたのだ。かつて「読み始めたときには眉唾だったが、読み進めるうちに論拠の豊富さから本の主張に同意するようになった」という経験が少なからずあり、そういう本こそが「邦訳された厚い本」なのだった。

 

こういう本での読書体験には、大きな山を越えるような面倒さがある。

少なくとも読みはじめた段階では、著者は自分の側の意見(偏見)を否定する立場の人でもある。つまりエコーチェンバー的見解では自分を脅かす敵にすら見えることがあり得る。

そういう状態から自分側の意見を翻すに至るには「説得の内容を自分の立場を横に置いて吟味する」という面倒さがまずあるし「心の中の直感的な反発心(これぞエコーチェンバー)を抑える」必要もあるし「心の中で自分の既存の意見を支持する事例が本の中の意見でどう説明されるのか」を再検討する必要も出てくる。

これら全体を総合して「十分興味深い」「自分の既存の考え方より心強い」となってようやく読書が成功裏に完了する。もしくはもっとややこしいところでは「どちらにも分があるので、いったん両論併記的に意見を再構築する」ということもある。

 

相対的に「薄い」本の読書については上記の現象は発生しづらいか、もしくは、まったく発生し得ないのではないかと思う。

そもそも前提として手に取る段階からタイトルなどで「自分に合っている」と判断してから読むのではないか。そうするの本の内容も同様で、「完全」に自分の意見と同じであるか、若干の差異・差分はあるものの大局では自分の思考スタイルに沿っている、つまり「自分のエコーチェンバーで強化される方の考え方」で書かれている。

そうでないとそもそもそんな本は「読まない」し、無理に手に取ったとしてもまともには「読めない」だろう。なぜなら、その「薄い」本の意見はそもそも主張として間違っているように読み取れるし、その「間違っている」というこちらの見解を否定する材料を持たせるには圧倒的にページ数不足だからだ。極端な陰謀論の本を読む際のスタンスとほぼ類似の皮肉的な読み方に終始するだろう。

 

ところでこの記事において前半で、「エコーチェンバー」だけでよいところで「フィルターバブル」のことも書いたのには一定の意味がある。「単に目に入らない」という趣旨では、この考察には結びつかないことを意識したかったからだ。『多様性の科学』の「エコーチェンバー」の定義は、もう少し敵対意見に辛辣だ。

薄い本は、自分の「エコーチェンバー」の中の趣旨で書かれている限り「その通り!」と納得されるが、そうでない場合は、単に敵対的に処するべき誤った本とみなされるのだ。目に入らない(「フィルターバブル」で隠れている)のではなく、悪書とみなされる。ある種の思考の人にとっては「標準医療がまずは適切」という主張は、陰謀論として排除され、不思議な力でがんが消える魔法の石の話が歓迎される。

 

『多様性の科学』自体がまた「邦訳の厚い本」の枠(とはいえ大した分量ではないが)の本として、私に新しい考え方を置いていった良著であった。以前の私は「フィルターバブル」=「エコーチェンバー」と捉えていた。しかし『多様性の科学』というに「邦訳された厚い本」はその事前の私の認識を乗り越えることに成功する。十分なページ数・入念なエピソード挿入によって、私は「フィルターバブル」≠「エコーチェンバー」である(という主張に十分な合理性がある)ことを説得された(とはいえこの場合について言えば、特にこの「山」を乗り越えるのに苦労したわけではないが)

 

多くの日本語書籍について言うと、海外書籍について、日本国内で自然にかかる質のフィルタが十分機能しない。出版社の儲けの思想も顕著で、いたずらに安易な本が生産されている状況が日々目に入ってくる。

おまけに「わかりやすさ」ブームの中で、主張のコンパクトさ、考え方次第ではあるがどちらかといえば「自分のフィルターバブルの中の説明で閉じているかどうか」「エコーチェンバー内で反響しやすいか」で売り上げ・人気が獲得されているように感じる。全部がそうでないことももちろん間違いではないが、物量の中で「主張が協力でかつ論拠が十分な厚い本」を拾い出す難しさは格別だ。だからこそ「信頼」に基づいて書籍というのは拾う必要を皆が感じてもしまう。ただその先でお勧めしてくるTVキャスターもまた「わかりやすさ」重視の(≒「エコーチェンバー」について鈍感な)勢力であることは論を待たない。

 

私が思うに、特に日本人が好む「わかりやすい」本は、それこそ「日本人のエコーチェンバー」の中にあるように思える。典型が経営者が残した書籍で、わからないでもないが相手の心の壁を打ち崩すモチベーションがそもそもない書き口だ。

日本で会社勤めなどしているとよくあると思うのだが「経営者XXXがすごい。あの人のこの本を読め」なんて勧められる。反論なんて許さないみたいな勢いで一方的な経営論を(著者というよりはその愛読者から)される。大変残念なことに、私の懸念には答えてはくれない。よって違和感に関する溝は埋まらない。このような読書や議論では、おそらく「思想がスカスカなときに、その人がどの本を読んで染まったか」という刷り込み以上の思想獲得はできない。最初はそれでも良いのだが。

 

ところで少し前から、ある書籍要約サービスを試してみている。この手のサービスは、以前から本能的に「うまく機能しないであろう」と憶測してはいて避けていた(もともと、特別な根拠もなく分厚い原著志向だったんだよ私は、きっと)。とはいえ、思想が軟弱な20代であれば避けるべきことも今なら受け止めてみる価値があるかも、といった若干ひねくれた動機があって、最近試してみている。

たた、案の定ではあるが、憶測の通りになりそうに感じる。主張の要旨はあれ、その1ページ要約で知らない著者の思想を吸収できるわけもない。好意的に捉えて役にたつとすれば、単純に知らない分野(地理的・産業的・政治的問題の論点)の開始点みたいなものが自分に添加されるのは良いことかもしれない。ただし、主張の背後にどのくらいしっかりした根拠があるのかはやはりはっきりしないし、筆者の思考の好みがずれていると、論旨全体に疑いの目を向けてしまうのは避けづらい。

 

エコーチェンバー除けとして「厚い本」であえて困難な読解をすることが、ある種「偏った」諸々の思想群から、自分にとって最適と思える真の通った自分固有の思想を形成する上では効果があるように思える。

あくまで後付けの説明ではあるが、自分が「邦訳された厚い本」により信頼を置くのも、少なくとも一部はこのような道理を20年程度かけて直感的に体得してきたからなのかもしれない。かもしんない。

 

「わざわざ読書でそんな面倒なことをすんの?」と思う向きがいるのはわかる。今回のエコーチェンバー除けを達成する手段を考えるうえでは、本は、いまだに相当有力な候補ではあるだろうが、唯一の候補ではない。

本を使用する必要なないとは言え、だ。自分の思想の適用範囲を広げることをしないと、やれ「変化」だの「AI」だの「VUCA」だの言われる中では生き残るのもおぼつかなくなるのではないか、ということはしきりに思う。

世の中に出回っているいろいろな知見・思想にはおのずと適用限界がある。因果論は因果がはっきりしない場合にひどく脆弱になるし、性善説は悪意のある人が紛れるとおぼつかなくなる。パレート最適について学んでも会社で「なんとかしろ」と言われた際に言い訳としては使えない(し、均衡を崩す具体的な政治的手管は経済学ではおそらく学ばない)。

 

使い分けのための研鑽をせず、狭い界隈の「エコーチェンバー」に浸っていると、それを突き崩すのは最後には現実である。つまり、生活上のリアルな危機によってはじめて認識することになる。もっとひどい場合は、気づきもしない。人のせいにし続けることにもなるだろう。

 

良薬は口に苦く、エコーチェンバーを避ける本は厚いんだと思う。

2024年を雑に振り返る

ゲーム周りは2024年のことをゲーム周りから思い出す - 真 もわ爛漫で書いた。

そもそもで言うと、この手の振り返りは毎年なんとなくやっているはずなんだけど、一箇所にうまく集められてないなぁ、なんて気がする。多分、ここ数年以上は旧Twitterでやっていたりするんだけど、昨今のXの状況で言えばうまい具合に年単位で振り返るのは難しい(明らかに遡りづらくなった印象があるよ)。

一方、長らくこのブログは放置していたのと、あんまり真剣なことは書き残していないようにしていたので、残っていない(ゲームとか趣味周りが中心)。残してものすごく意義深いかっていうと多分そんなことないんだけどね。

 

んで、自分も歳を取った影響でか、多分繰り返し色々同じことを考えて喋って書いて、もしている。言い方を変えると「今年に新たに起きたわけでもないこと」をあたかもここ1年の新しいことのように考えてしまったりもする。これの典型は 2023年のむやみに老後を考えていた - 真 もわ爛漫だろう。今年の半ばくらいに考え始めたことかと思ったらちょうど1年も前にすでに書いていた。老化に関して繰り返し考えていることそのものには意味があると思うんだけど、あたかもいま思いついたかのように思考するのは、無駄がありそうね

 

※ 関係ないけど、敬体と常体が安定しないね、延々そうだ。

 

今年で印象深いといえば、「また」転職している。そう、またなんだ、すまない。一時は結構ドキドキしたんだけど、今のところ(わずか数ヶ月だけど)転職後の社内の評判は悪くはないと思うし、今回の転職前に思っていた自分に対する課題意識を踏まえたうえで考えるなら、順調な滑り出しにはまぁまぁなっていると感じられる。ただ、入社二日目に既存社員にダメ出ししているのはどうか(態度でかくね?)と思った(前回は、三日目だったので、良くも悪くも大差がない)

周囲に何度か話していた……かは定かじゃないんだけど、ここ数年で「エンジニアリングマネジメント」の類については土地勘が相当ついた感がある。課題がないわけじゃないんだけど、5~6年前に「あ、マネジメント弱いままかも!」みたいな不安意識が(若干?結構?)あった中で言うと大分状況は変化して、ある程度自信を持って「こういうのはこう」と状況を変える手札は抱えられた。

今回転職にあたって、やるなら「規模がもう少し欲しい」といったところがあって、その願望には沿った変化はあった。

特に事細かに説明しないけど、一般には転職には取引(気にしている良い変化のために、いくらか良くないところも引き受けるケースがままある、という話)の部分があって、良いと思える変化もいまいちと思わざるを得ない変化もあるんだけど、総じて「キャリア」で言えば良い方向だろうネ。

悪いのか良いのかわからんけどdvorakを使わなくした。これは多分に上の転職がきっかけなんだけど「マネジメント業」ならどっかでやっといたほうが良いよな、と10年以上思っていたことなので必ずしも転職が決定打であった、ということはない。ただ、一方では「以前より周囲がお硬いせいでPC環境が退行したのがきっかけなのはどうなの?」って話があって、他方では「ふざけんな、環境よくしろ」と説得して予算系の話とか在庫の議論も含めて整理もする立場が今回は当の私自身だったりしている。

環境改善について特に重要なところから攻める場合、自分だけしか使わないdvorakが大事ではないので後回しってのは自然だ。ところが、こういう話というのは奇特な「dvorakキー配列」だけ見りゃそりゃどうでもいいんだけど、それ単独で状況を説明しきることの方がむしろ珍しい。良い開発者ってどこか尖っていることもあるよねって話に対して「尖ることに保守的なかんぱにー」みたいな事象のひとつの現れっていう側面もある。全部サクッと良くできたりは、安定気味な会社ほどしないので、地味なんだけど難しいよなと思う。

不満並べるだけで良いって立ち位置じゃ、もはやないからねぇ(そう自ら「希望」すらしている)。セキュリティリスクの方を先に対策させると、相手の「対応可能リソースの余力」だとか、自分の「交渉リソース」だとかが削れると言われるし、事実眼の前で「あ、残機減った」と感じることも少なくない。

そのうち「全部最優先だ!」っていつか自分の方が言い出しかねない危うさを背中に感じる。「評判いいみたいよ」「それはあなたに気を使っているんです、偉い人」とか、そういう展開も本当に起きえるし、起きている。全体千人規模、視界に収めるべきが数百人、視界に収める範囲内で上位一桁(下手したら前半)。ま、その上でも上記の通り「規模がもう少し欲しい」って願望には合っているよね。。

 

会社組織の話以外にも変化は着々と起きている。前掲の通り「老後」が視野に入ってきていて、文字を見るときに「む、老眼だな?」と思える所作を自然にとっていることもある。一方、ただ老後の観点を生活の中心に添えるにはまだちょっと早い中年期、という感覚もあって(50代後半、とかじゃぁないんだよまだ)、あと一段か二段くらい、人生の上では前のめり・高望みのジャンプと言うかせめて水平移動というか、何か一工夫以上のことが要るなーという感覚もある。

とりまとめるマネジメントの考慮範囲にしても、いくら以前より大きくなったといっても、数万人とか人数はさておきグローバル企業……という話じゃない。規模と関係のない「有名度」とかが上がったわけでもない。粛々とやっているとズルズル「下がる」イメージもある。

家のことも、もちろんある。親の介護とかいう話も、当然今後盛り上がってくるでせう。今、目下一番心配なのは子どもが漢字得意じゃないこと……なんてのも、そういえば新しい要素といえばそうか……。ま、幅が広く、さりとて致命的に疲弊が続く事態というのもなく、というのは良いんじゃなかろか。

 

以前との差で若干自分の中でも「何か残念だねぇ」みたいな精神面の変化で一つ思い出せるものを書くと、例えば年末のコミケとかへの興味がめっちゃ低かったりしている。このご時世にわざわざパンデミック的なリスク込でどでかくやるイベントの意義にそこまでついていけなくなっているのは、歳だからか、何某かの合理性からか……。DDRに興味が生き残っていることの方が意外だ。

 

干支1周以上前に某海外から戻ってきたときに「なんかあんまり日本以外の国にいてもなぁ」とか少なからず思っていたのを、今の海外ニュースを見ながら思い出したりもする。戻ってきたのを正解だったかな、と素直にほっとする側面もあるんだけど、とはいえ具体的に「こういう」展開になる(から戻ってきたんだ!)みたいな具体の予測に基づいて当時行動したわけではないし、今後10年~20年で日本がマトモでありつづけるのかについて、それはそれで懐疑的なわけでもあって(塞翁が馬)、また報道なりゴシップなりで見聞きするトレンドにそんなに安心できる話が目白押しということもなく、なんとも煮えきらない。

 

ダラダラ書いたけど、2024年の感覚を書いておくとすると、そんなところじゃないだろか。

 

見えるものが変わる

少し前に「また」転職して、視界に入る風景が変わった。

個人的には頻繁というほどの頻度とは思っていないが、日本の雇用慣行の平均よりも転職回数が多いのは確かだ。3年~5年に一回の転職というのは、転職が増えた現代でも日本国内で多数派とまでは思わない。

一方、転職という現象を俯瞰的に捉えられるほど、ということでもない。せいぜい5回とかそういう単位では一般論は語れないだろう。とはいえ語れることもある。

今回の転職先においての課題は、色々あるが「(社内)教育とはなにか」が重要なパートにあるのは間違いがないようだ。前職でも一部そういうことはあったが、あくまで同僚になにかを教えるとかそういう単位であって、組織に教育体制をインストールすることまではあまり体系的には考えてなかった。今回は必須そういう雰囲気を感じ取った。

前職と現職において、(社内)教育についてなぜ自分のスタンスがここまで変わるのかについて自体を考察するのも意義があるがここでは置いておく(この論点でも本当に学びがある。一言で言えば「企業カルチャーというのはそこにまで深く影響する」)

「やべーな」と思ったきっかけはシンプル。「年末勉強しようと思います」というある(直接の関係はない)社員の発言であった。ここまでは問題を感じない。ポイントは次だ。「◯◯という本を読んでみます」

◯◯については具体的には述べないが、要するに「私から見たらハズレの本」であることが直感的には察せる本である、とは伝えておく。後々使うので書いておくと「△△になる!□□個の方法!!」みたいな本である

同社員が悪意を持っているとは到底思えないが、書籍の選定基準に私と大きな乖離があるのは間違いがない。加えて、その社員がなにか「間違った」(≒私から見て間違っていると解釈される)行動を社内で起こす可能性が増す、という可能性も示唆される。

向こうは比較的若手のプレイヤー。一方こっちは中年管理職だ。

ガーン

この状況についてなにか行動を起こすか起こさないかが、間接的には私の仕事の一部となっている、そう感じた。

組織のパフォーマンスに対する結果責任ってのはそういうことなのだ。体で例えると、脂肪肝になるのを肝臓のせいとか脂肪のせいにはできない。ましてや、脂肪肝がきっかけでさらなる病気が起きた際に、自分の肝臓が優秀じゃないとかわめくわけにはいかない

誰かのせいにしたいが自分の顔しか思い浮かばない - tkdn

 

というわけで、当該の本と思しきものを書店で眺め、目次で書籍の方向性を舐めた。

良いことも書いてある。どうだろうと首をかしげるものも書いてある。言うまでもないかもしれないが、自分にとって直接学びになることも書いてある。直接的な比率でいうと□□個あるうち、60%まとも、20%首をかしげる、10%否定をしたい、10%は自分に真に学びがある……という具合にマッピングできそうな感じ。

先に「私から見たらハズレの本」であることが直感的には察せる本、と書いたが、これ自体は間違いだ。そういうのは「90%くらいダメ」みたいな本を想定している。今回の比率はそうじゃない。直感で、脊髄反射のように「そんな本読んじゃだめだよ」とか言わなくて良かった(言うつもりもなかったんだけど、そういう人いるよね?)

ただ、この比率は自分が思った感覚の半分を説明するくらいでしかない。「それぞれの項目がどう説明されているか」も等しく重要であるように感じられた。

「20%首をかしげる」「10%否定をしたい」部分についてだけあげつらって「この本は信用できないよ」という指摘をすることも可能だ。だが言い換えると70%まともな本である。10%に至っては「なるほど」と思うものでもある。これを「信用できない」本とするのは誠意と言い切れるものではない。

実は70%の部分も書き方次第という側面がある。宗教チックに「努力は、むくわれるのです!!」とか書かれていたら今の私でも揚げ足をとる。「10000時間の法則があるのです!!」も同様。一方「全員が10000時間とは限らないが、長時間の練習は素質の多寡と関係なくどの人もしていた。期間にして10年とかそういう単位で」という主張なら十分信頼できる。

読み手が腑に落ちるかでも、推奨する情報の傾向は変わってくる。さきほどの最後の主張は、硬直的な「1万時間の法則」という表現よりもおそらく信憑性はずっと高いのだが、主張としてはあまりにぼんやりしすぎている(良くも悪くも科学的風だ)。そのため、読んだとて、具体的な行動に繋がらない人も多くいることだろう。

(社内)教育を考えると、それは「効果」が十分ではないということでもある。科学オタが周囲への影響云々を考えることなく抽象的に論評するときとは、本に対する評価の仕方・その発信の仕方は必須異なるものになる。

そうして、……その本は今手元にあって、どういう主張でどういう根拠でどういう語り口なのかを確認する作業をする予定でいるのである。

実はそういうのに近い動きは現職で飛躍的に増えた。他の人が読んでいる本、読もうとしている本、もしくは他の人が関心を持っているトピックに関する本、本に限らずWebの資料も含めて、その良し悪しを自分単独の基準で測ってはいけない、みたいなことがとにかく多い。自分としては必要とはしていないが、ある人のあるレベル感の行動にはこの方法が良いよ、というアシストはその人は成長させ、組織も成長する。前職でもゼロということはなかったが、対象者の桁感が違っている。1冊とかそこらのレベルじゃないんよ。組織全体への波及の話なんよ

これはこれで「興味深い」ところなので良いが、風景の違いは格別だ(いや困るなこれ)。転職なしでこういう感覚を得るのは、組織内だと少しむずかしいような印象がある。部署ごとのカルチャーが違っても、認知の構築の枠組みが違うって事象はあまり想像がつかない。IT化している限り、その共通の仕組みとそこを介して伝わる情報によって、暗黙にエートスの共通化が含まれている、とでも言おうか。

乗り越える必要があるだろう。

フルリモート云々

基本的には「可能な限り出社しておきたい」スタンスなので、フルリモートにそこまで共感はできない派閥に私はいます。

明日会社に行けるぞ…!! - yamaScrapbox

いや、そこまでバーサーカーではないです。

 

リモート必要なときにできないのはどうかと思いますし、感染症なら隔離は優先されるでしょうね。あと、「フルリモートですよ」と伝えていた矢先に内定後に「違いますよ」ってなるとか、そういうウソに属するような不誠実な情報提供はリモート云々以前にNGだとも思います。

 

そのうえで、フルリモートで仕事できるという体制にするハードルというのを意識せずに権利意識だけで主張をする人にはやはりあまり共感できません。日本の労働法でそういう権利というのはカケラもないかと思います。

 

いやあの労働法がぱっと聞いた感じIT系の仕事の性質からしてアホな部分があるのは同意します。労働場所と労働時間については基本としては指示される前提って、物理的な店舗がある受付窓口なら是ですけどITワーカだと何かチゲーよみたいなのは分かります。トイレ休憩も許可制ってやつね。窓口なら場合によってはそうなんよ

 

ITワーカ的な文脈では「生産性」的な文脈で語る必要があって労働法っぽいのからは発想はズレます。とはいえ契約に基づく業務であり、高い生産性を実現できる方法を模索するのは企業努力の一つ。んで、フルリモートは以前から「あんまり生産性上げやすい方法じゃないねぇ」ってのが、ある意味仕事を作る側のコンセンサスじゃないのかな、と思っています。

 

この「仕事を作る側」の工夫が非常に極まって、かつ、事業の性質上リモートワークで十分な生産性を維持できる場合にリモートであるとかフルリモートというのが成立するのだと思います。例えば風邪引いているときに出社 or 欠勤というのと別のオプションを取り得る、ていうのは是の方向に感じます。

 

フルリモートというのは何か経営っぽい文脈の人が偉く苦労して考えてようやくできたりできなかったりする。競争的な環境でもあるのでそこはできないから論外ってスタンスは、流石に今は違うのかなーと。ところでGitLab使ってます?

 

フルリモートありきで考える人はそういう交換の考え方が弱いと言うよりスタンスとして欠損して見えるのが気になります。

 

労働者の権利で守られている枠がかなり厚いというのは当然享受して良いとも思うんですが、踏み込んで生産性を費用対効果でみて良い具合に高めるという発想自体が欠損していると、それは「既得権益やのぅ。会社からすると邪魔に見えやすいかもな」なんて思います。