以前から「日本人の書いた本はおおむね苦手」であるとか「邦訳された厚い本がしっくりくる」といった話をしたり書いたりしていたように思う。ただ、「なぜか」については自分自身もしっくりした説明をできていなかった。
『多様性の科学』において「フィルターバブル」と「エコーチェンバー」は似て非なる概念として記述されている。そこでふと、上記の「大部の本好き」「日本人書籍嫌い」に対するヒントを得られたように感じた。これはもしかすると個人的に非常に大きな発見であるかもしれない。
『多様性の科学』において「フィルターバブル」は都合の悪い文脈が「見えない」ことを問題視している一方「エコーチェンバー」は都合の悪い文脈も見えるが一切信用ならないもの、その発信者の人間性含めて貶めてよい敵対対象であるとみなす傾向がある、といった話がある。今回の議論でより重要なのは「エコーチェンバー」の方だ
同著でも引用なのでここでは孫引きになるが、以下のようにある
自問してほしい。あなたは優秀な統計学者とそうでない統計学者の区別がつくだろうか?いい生物学者とそうでない生物学者は?原子力工学者ならどうだろう?放射線医師やマクロ経済学者なら?(中略)こうした検証を自身で行うのは極めて困難だろう。そこで拠りどころとなるのが、信頼という大いに複雑な概念だ。我々は互いを信頼し合わなければならない。しかし哲学者のアネット・ベイヤーが言う通り、信頼は人を無防備にする。
エコーチェンバー現象の影響を受けているときには、おそらく自分が信頼を寄せている考え方・それを主張する人々の意見はより容易に同意したくなる。逆の場合は、当然、相手の意見に敵対的な方向からスタートする。
ここでふと気づいたのだ。かつて「読み始めたときには眉唾だったが、読み進めるうちに論拠の豊富さから本の主張に同意するようになった」という経験が少なからずあり、そういう本こそが「邦訳された厚い本」なのだった。
こういう本での読書体験には、大きな山を越えるような面倒さがある。
少なくとも読みはじめた段階では、著者は自分の側の意見(偏見)を否定する立場の人でもある。つまりエコーチェンバー的見解では自分を脅かす敵にすら見えることがあり得る。
そういう状態から自分側の意見を翻すに至るには「説得の内容を自分の立場を横に置いて吟味する」という面倒さがまずあるし「心の中の直感的な反発心(これぞエコーチェンバー)を抑える」必要もあるし「心の中で自分の既存の意見を支持する事例が本の中の意見でどう説明されるのか」を再検討する必要も出てくる。
これら全体を総合して「十分興味深い」「自分の既存の考え方より心強い」となってようやく読書が成功裏に完了する。もしくはもっとややこしいところでは「どちらにも分があるので、いったん両論併記的に意見を再構築する」ということもある。
相対的に「薄い」本の読書については上記の現象は発生しづらいか、もしくは、まったく発生し得ないのではないかと思う。
そもそも前提として手に取る段階からタイトルなどで「自分に合っている」と判断してから読むのではないか。そうするの本の内容も同様で、「完全」に自分の意見と同じであるか、若干の差異・差分はあるものの大局では自分の思考スタイルに沿っている、つまり「自分のエコーチェンバーで強化される方の考え方」で書かれている。
そうでないとそもそもそんな本は「読まない」し、無理に手に取ったとしてもまともには「読めない」だろう。なぜなら、その「薄い」本の意見はそもそも主張として間違っているように読み取れるし、その「間違っている」というこちらの見解を否定する材料を持たせるには圧倒的にページ数不足だからだ。極端な陰謀論の本を読む際のスタンスとほぼ類似の皮肉的な読み方に終始するだろう。
ところでこの記事において前半で、「エコーチェンバー」だけでよいところで「フィルターバブル」のことも書いたのには一定の意味がある。「単に目に入らない」という趣旨では、この考察には結びつかないことを意識したかったからだ。『多様性の科学』の「エコーチェンバー」の定義は、もう少し敵対意見に辛辣だ。
薄い本は、自分の「エコーチェンバー」の中の趣旨で書かれている限り「その通り!」と納得されるが、そうでない場合は、単に敵対的に処するべき誤った本とみなされるのだ。目に入らない(「フィルターバブル」で隠れている)のではなく、悪書とみなされる。ある種の思考の人にとっては「標準医療がまずは適切」という主張は、陰謀論として排除され、不思議な力でがんが消える魔法の石の話が歓迎される。
『多様性の科学』自体がまた「邦訳の厚い本」の枠(とはいえ大した分量ではないが)の本として、私に新しい考え方を置いていった良著であった。以前の私は「フィルターバブル」=「エコーチェンバー」と捉えていた。しかし『多様性の科学』というに「邦訳された厚い本」はその事前の私の認識を乗り越えることに成功する。十分なページ数・入念なエピソード挿入によって、私は「フィルターバブル」≠「エコーチェンバー」である(という主張に十分な合理性がある)ことを説得された(とはいえこの場合について言えば、特にこの「山」を乗り越えるのに苦労したわけではないが)
多くの日本語書籍について言うと、海外書籍について、日本国内で自然にかかる質のフィルタが十分機能しない。出版社の儲けの思想も顕著で、いたずらに安易な本が生産されている状況が日々目に入ってくる。
おまけに「わかりやすさ」ブームの中で、主張のコンパクトさ、考え方次第ではあるがどちらかといえば「自分のフィルターバブルの中の説明で閉じているかどうか」「エコーチェンバー内で反響しやすいか」で売り上げ・人気が獲得されているように感じる。全部がそうでないことももちろん間違いではないが、物量の中で「主張が協力でかつ論拠が十分な厚い本」を拾い出す難しさは格別だ。だからこそ「信頼」に基づいて書籍というのは拾う必要を皆が感じてもしまう。ただその先でお勧めしてくるTVキャスターもまた「わかりやすさ」重視の(≒「エコーチェンバー」について鈍感な)勢力であることは論を待たない。
私が思うに、特に日本人が好む「わかりやすい」本は、それこそ「日本人のエコーチェンバー」の中にあるように思える。典型が経営者が残した書籍で、わからないでもないが相手の心の壁を打ち崩すモチベーションがそもそもない書き口だ。
日本で会社勤めなどしているとよくあると思うのだが「経営者XXXがすごい。あの人のこの本を読め」なんて勧められる。反論なんて許さないみたいな勢いで一方的な経営論を(著者というよりはその愛読者から)される。大変残念なことに、私の懸念には答えてはくれない。よって違和感に関する溝は埋まらない。このような読書や議論では、おそらく「思想がスカスカなときに、その人がどの本を読んで染まったか」という刷り込み以上の思想獲得はできない。最初はそれでも良いのだが。
ところで少し前から、ある書籍要約サービスを試してみている。この手のサービスは、以前から本能的に「うまく機能しないであろう」と憶測してはいて避けていた(もともと、特別な根拠もなく分厚い原著志向だったんだよ私は、きっと)。とはいえ、思想が軟弱な20代であれば避けるべきことも今なら受け止めてみる価値があるかも、といった若干ひねくれた動機があって、最近試してみている。
たた、案の定ではあるが、憶測の通りになりそうに感じる。主張の要旨はあれ、その1ページ要約で知らない著者の思想を吸収できるわけもない。好意的に捉えて役にたつとすれば、単純に知らない分野(地理的・産業的・政治的問題の論点)の開始点みたいなものが自分に添加されるのは良いことかもしれない。ただし、主張の背後にどのくらいしっかりした根拠があるのかはやはりはっきりしないし、筆者の思考の好みがずれていると、論旨全体に疑いの目を向けてしまうのは避けづらい。
エコーチェンバー除けとして「厚い本」であえて困難な読解をすることが、ある種「偏った」諸々の思想群から、自分にとって最適と思える真の通った自分固有の思想を形成する上では効果があるように思える。
あくまで後付けの説明ではあるが、自分が「邦訳された厚い本」により信頼を置くのも、少なくとも一部はこのような道理を20年程度かけて直感的に体得してきたからなのかもしれない。かもしんない。
「わざわざ読書でそんな面倒なことをすんの?」と思う向きがいるのはわかる。今回のエコーチェンバー除けを達成する手段を考えるうえでは、本は、いまだに相当有力な候補ではあるだろうが、唯一の候補ではない。
本を使用する必要なないとは言え、だ。自分の思想の適用範囲を広げることをしないと、やれ「変化」だの「AI」だの「VUCA」だの言われる中では生き残るのもおぼつかなくなるのではないか、ということはしきりに思う。
世の中に出回っているいろいろな知見・思想にはおのずと適用限界がある。因果論は因果がはっきりしない場合にひどく脆弱になるし、性善説は悪意のある人が紛れるとおぼつかなくなる。パレート最適について学んでも会社で「なんとかしろ」と言われた際に言い訳としては使えない(し、均衡を崩す具体的な政治的手管は経済学ではおそらく学ばない)。
使い分けのための研鑽をせず、狭い界隈の「エコーチェンバー」に浸っていると、それを突き崩すのは最後には現実である。つまり、生活上のリアルな危機によってはじめて認識することになる。もっとひどい場合は、気づきもしない。人のせいにし続けることにもなるだろう。
良薬は口に苦く、エコーチェンバーを避ける本は厚いんだと思う。