「管理」って言葉は本当によくない

最近はよく「リスク管理」について考えることがある。しかし何かにつけて言葉が邪魔をする。

自分が思っているのは、要するに「ヤバいことが起きないか心配だ。起きるだろうか、起きたらどのくらいまずいだろうか、もし起きたらどうしよう」ということだ。ごく自然な人の所作と言って良いと思う。小学生でも遠足で怪我をすることを心配して厚手のズボンを履くなり絆創膏を持っていったりする。

ところが、これを「リスク管理」と呼んでしまうと、唐突に思考の土台になるものが変わってしまう印象があり、私の中だけですら、概ね20年程度、その微妙な、ただ重大なぬかるみに人々が囚われているのを感じ続けている。

「昭和ゆかりのビジネスデスクの上で白いワイシャツのおじさんが腕組みをして書類に項目を書き連ねる」イメージが強まる(少なくとも個人的には)。「管理職」みたいな言葉に対する偏見もあろう。

問題だと思うのは、「リスク管理」で想起されがちな各種の雑多な概念が、取り扱いたい事象の本質と全く関係ないことだ。昭和もビジネスデスクもワイシャツもおじさんも関係ない(いや、おじさんは私だ)。

大事なのは「危なくない?」と健全に疑う心と所作で、それを忘れないようにすることを強いて言えば「管理」という表現に落とし込んでいるだけだ。Risk Managementだって同じである。アクションを取らない意思決定である「リスクの受容」すら「危ないことを放置することにしたという話をみんなで忘れないようにする」という話だろう。

ところが、何かをしているときに「危なそうなこと」を「忘れないようにする」という自然な所作を、「リスク管理」という「プロセス」の言葉で呼んでしまう瞬間に、何か膨大な量の悪い副作用が起きているように毎度思う。

これは「要件定義」という(個人的には)ゴミワードでも同じことが起きるし「要件定義プロセス」となればゴミが二重がけで、残念なことにその言葉を使った瞬間から人々の心は本質からすでに遠く離れているように感じる。

言葉の統一は悲願だ。というわけで、過去の人々は統一的な言葉を社会に組み込んだ。そのうちの一つは共通フレームと言う。残念なことに、この悲願が同時に呪いを内包している。そして、個人的には呪いがすべてをダメにしている。

もし個別の小さい取り組みをする程度であるなら、この呪われた言葉から距離を置くようにしたほうが良いかもしれない。例えば「強いて言うならば、これはISO XXXXXでいうZZZZのことです。ただ、我々チーム全体でより馴染みの深い素朴な言葉で話を続けることにしましょう」といった細かな(標準からの意図的な)逸脱が、小さい取り組みでは解呪の役割を果たすことがある。