「見た目の因果 v.s. オッカムの剃刀」的な何か

グラフを共有されて「AとBが相関しているのでうーたら」ということで何か判断がくだされていて、まぁ相関なのでCが疑われるんだけど、浅く考えるとAがBの原因みたいに見える、なーんていう事例を見ていて頭を抱えている

「AがBの原因」……うーん表面的にはそういう説明もできるんだよね、とは思っていて、ただ、私が観測している文章化が難しい他のコンテクスト由来の情報に併せて考えるなら、その因果関係を予測するのはちょっと馬鹿らしい、という感じなんだ。

例で言うなら、準備もなしにダンジョンに飛び込んだパーティが全滅して、その原因は最後に回復呪文の詠唱が遅れた僧侶のせいだ、と言っている感じ。ええとね、僧侶を叩きたいのは分かった。でも準備がないのが真の原因です。

ただ、人の世の中ってのは上ほどはっきり確実に真の理由を断定できるなーんてことはない。とくに言語化難しい、明白でないコンテクストを議論の土台に持ってくのは大変っちゃァ大変。

概ねこういうときは「予測して、おおよそよく当たる方が正しい」みたいに時間軸をつけて解釈をすることで、いたずらに論理を弄することなく予測する力を鍛えられること「も」ある。『超予測力』の論旨は大体そういうやつだったし、私の短い小さい経験の中でも、「言葉に説明できないが勘案しとくべきパラメータ」の評価ってのは時間を置いてきちんと見直すほうが、言葉尻の論理とやらに倣うより有効っぽい(あくまで「っぽい」にとどまる)印象ではある。

ただねぇ、ある種の会議で議事録に残る瞬間ってのを考えると、上の理路っつーのはなかなか通しづらいなとも思うわけだ。「その仮定の論理的正しさ」みたいな方が、ある種の裁判官は好きなわけよ。たとえ予測可能性が低そうな感じであっても。

んでもって、「オッカムの剃刀」の「ある事柄を説明するために必要以上に多くの仮定を用いるべきではない」「ある現象を説明する理論・法則が複数ある場合、より単純な方がよい」的な話ってのは、どちらかというとその「ある種の裁判官」の言い分寄りで、現実の生存率に関わる話とはちょっとずれているな、と思った次第。

まぁ原理定理の世界というよりは、文学的な比喩だからねぇ……