「知っている」と「わからなくなる」という現象がある

網羅的な分析をする気力もないのでメモだけしておく

「何か」を使っていると、その「何か」のうち、どこかを軽視するようになる

「何か」を作っていると、その「何か」のうち、どこかについてそれがどのくらい難しいことなのかが分からなくなる(→その作るプロセスの何処かを簡単と誤認するようになる)

普段ソフトウェアを使っていると、それを作るプロセスを何か具体的に経験したことがないのに「作れそう」という感じが生まれることがある。問題は実際にはどのように作るかについては、本当に、一切、全く、経験が増えていないにもかかわらずそうなることだ。

強いて言うなら、「使い勝手の評価」というごく一部の「テスト」に「関わる」知見はその人は蓄積する。ゲームを考えよう。「面白いゲーム」を私は知っている、だから、私は面白いゲームを作れる、と誤認するようになる。

「役に立つソフトウェアを知っている、だから、私はそのソフトウェアを作ることもできる」という誤認は多い。おそらくだが「身近」になると、その親近感によって、プロセスを全く知らないのにもかかわらずそちらも「近しい(つまり触れたことがあり、何某か通じている)」と連想する脳の働きがあるんだろう。親しい知り合いからの頼まれ事は、同じものでも知らない人からのよりも受け入れやすいことがある。事象としては遠いところにはあるが、脳のショートカットの中では類似した回路を援用しているような印象がある。

作っている側は作っている側で、身近なことを距離を置いて捉えることができなくなる。私はソフトウェア開発の文脈でよくこういうことが「あった」。今その症状が幾分緩和しているのは、ソフトウェア開発の講座を何度も主催側で見てきたからであり、現在進行系でも人を育てることがあるからだ。自分が当たり前だと思っていることが他者ができるようになるかは不明で、それに達する速度も人によってまちまちだ。基本情報技術者を半年程度で取る金融出身のnon-tech系中年もいれば、ITパスポートを何度も取りこぼすバリバリのITエンジニア若手もいる。

ちなみに上の発想が想起されたのは「共通フレーム2013」を読み直しているときであった。ウォーターフォールなりには良い示唆が書かれていると思うが、あいにく多い。正しいが示唆が多い。極論すれば、多数の正しいが多すぎる(故に現場で動的に想起できない)指摘それらが、全体として何かに収斂していく感覚があった。ユーザ企業とベンダー企業の間で起きるすべての問題がここにあるもう少し雑な(大局的な)話題に収斂するとまでは言わない。ただ、結構なチェック項目は、同フレームほど細かくするまえに対話の中で危ない兆候を拾えるように思えた。「土台の警戒心」は、チェックリストの物量よりも「コスパが良い」感覚が私にはあるのだ。